こんばんは、ノアです。
今回は世界の教養学習17日目、パルテノン神殿についての記事です。
パルテノン神殿は、有名な政治家ペリクレスの命により、ペルシア軍に対するギリシア軍の勝利を記念するため紀元前447年から前432年に建設されました。
アテネのアクロポリスにあった旧神殿跡に建てられ、アテネの守護神アテナ・パルテノスが祭られていました。現存するギリシア神殿のうち、保存状態が最もよいものの1つです。
パルテノン神殿を建設した建築家は、イクティノスとカリクラテスで、内部に安置されていた高さ10メートル余りの神像と神殿外側の膨大な彫刻制作は、彫刻家フェイディアスの手によるものです。
古代ギリシアの神殿は、たいてい長方形で、四方の階段から中に入ることができました。パルテノンも含め、神殿の多くは周囲に円柱が何本も立っていました。神殿を建設する際、ギリシア人は、建築様式としてドーリア式、イオニア式、コリント式の三つのうちの1つに従うことが多かったですがパルテノン神殿は、ドーリア式とイオニア式という2つの要素を組み合わせているのが特徴です。
また、視覚補正と言って、形をわずかにゆがめることで建物の見え方を美しくする技も使われています。
パルテノン神殿は、アテネ没落後も何百年にもわたって礼拝の場所として使われていました。6世紀にはキリスト教会に変えられ、さらに、1458年にギリシアを征服したオスマン帝国によってモスクに変えられました。
1687年の戦いの際には、神殿に保管されていたオスマン軍の火薬にヴェネツィア軍の砲弾が命中し、神殿は大破しました。
1801年、オスマン帝国の首都イスタンブールに駐在していたイギリス大使エルギン卿は、許可を得てパルテノン神殿の彫刻のうち保存状態の最もよいものをイギリスへ送り、のちにイギリス政府に売却しました。これらの彫刻群は、現在は大英博物館で見ることができるが、ギリシア政府はその返還を求めています。